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チェルフィッチュ+α

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2008年 8月 1日(金)18時24分19秒
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    書き込みが大変遅れました。
 横川君、「チェルフィッチュ、意図的なナチュラリズム」というテーマでの発表、興味深くはあったのですが、「先行するイメージ」が具体的にはどういうものなのか、ぼくにはわかりにくかったですね。中村さんのコメントを聞いて、少しはっきりしてきましたが。
 全体にはよくまとまっていたのですが、チェルフィッチュの紹介のような印象が強くなってしまうのは、教室でも言ったように、結論が一般論的になってしまったため、チェルフィッシュを成り立たせている個々の要素の働きや結びつきがかえって希薄に感じられてしまったためだと思います。せっかく細かく説明してくれたので、なんとかもう少し掘り下げてもらいたいものです。(新しい演劇のかたちであることはわかったものの、どうも魅力的にはぼくには思えなかったのも、そのあたりのことと関係しているかもしれません。)

 急遽発表テーマが変わり、ぼくの知らない演劇が取り上げられたため、なんとく割り切れない部分もあり、質問の時間を必要以上に長くとってしまったかもしれません。本当は、今年度の最後の授業だったので、来てくれた皆さんにもっと自由に話してもらうつもりで、そのための素材も一応や用意していたのですが、横川君の発表に出てくる「無意識」が、これまでの発表で取り上げられて来た「無意識」と微妙に違う部分もあり、どうも発表のあとにこれまでの授業を振り返ってのフリーディスカッションには持っていきにくかった部分もあります。それに加えて、ぼくの体調のせいもあり、ディスカッションへの移行ができず、せっかく来てくれた皆さんには申し訳なかったように思います。できれば、また何か機会を作りたいものですが、さて、どうなりますか。
 この授業では、いろいろな表現のかたちに触れてもらいたいと考えていたので、その点は少なくとも果たせたのではないかと思っていますが、それを踏まえての意見交換のようなところまではあまりいかなかったのがやや残念です。たとえば、同じ写真でも、カルティエ=ブレッソンと大辻清司と森山大道ではかなり違う表現であり、しかし、それぞれに「無意識」とは絡んできているはずで、そのあたりのことをまたいつか皆さんと話せればと思っています。
 それはともかく、まずは、よい夏休みを。
 
 

ダリ

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2008年 7月23日(水)11時22分26秒
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   山本さん、発表お疲れさまでした。
 「サルバドール・ダリ、食べることと知ること」と題された発表で、たしかにダリにとっての「食べること」というテーマはおそらく重要なのですが、その割にはそれほど注目されていない気がするので、大切な視点だと思います。その「食べること」とカタルーニュ的物質主義との結びつきも興味深かったのですが、それを最終的に「知ること」に収斂させてしまうのは、このテーマの広がりを狭めてしまうようで、少しもったいなかったですね。途中でフロイトの理論との比較を通じて食欲と性欲との関係を述べた部分も、やや宙に浮いてしまいました。
 やはり、教室でも言いましたが、同じ食べ物でも、「柔らかいもの」と「硬いもの」を区別して考えてみたほうがいいのかもしれません。舌と顎という話もありましたが、感覚的にはかなり異なってきますし、今回の発表では最終的には「硬いもの」に流れていった感じがありますが、「柔らかいもの」の重要性をむしろ聞きたいようにも思いました。この「柔らかいもの」は、「皿の上の目玉焼き」が母親の胎内の光景だったり、エビの柔らかい身がダリ自身という説明に従うなら、幼児の記憶やナルシズムに結びつきそうです。そうしたものとしての「柔らかいもの」が、「食べること」を介して、「硬いもの」とどういう関係にあるのか、これはなかなか難しい問題ではありますが、これになんらかの答えが出せれば、すぐれたダリ論になるはずです。

 さて、次回はいよいよ最終回です。次回も発表はひとつだけなので、これまでの授業について振り返りつつ、いくつかの問題について考えてみたいと思います。
 

ファッション&バーニー

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2008年 7月17日(木)01時34分7秒
返信・引用
   永濱さん、蔦原君、発表お疲れさまでした。今回も遅くなってしまいましたが、感想を簡単に書いておきましょう。
 まず、永濱さんの「ファッションとシュルレアリスム」について。これはなかなか興味深いテーマです。ファッションのある種のもののなかには、たしかにシュルレアリスム的と呼びたくなるものがありますし、永濱さんが紹介してくれたスキャパレリはなかなか魅力的な存在です。ファションの側から眺めることで、シュルレアリスムについても新たな見方ができる面があるかもしれません。実際、コラージュやデペイズマンは、既成の要素を使いつつ、その組み合わせや配置を変えて見慣れないものにしていくわけで、そうした方法は、それこそ既成の素材でオリジナルなデザインを作り上げるファッションと比較してみることで、わかりやすくなる部分があるでしょう。
 ただ、結論にある「ファッションは本質的にシュルレールである」という言い方については、もう少し説明が必要です。この言い方については、レジュメでその前に書かれた文が説明しているとも言えるのですが、こちらの文自体がやや難解でもあるので、やはり補足を求めたくなります。さらには、その前のナジャからの引用についても同じことが言えます。せっかく重要なテーマを扱っているのですから、そのあたりをもう少し丁寧に扱ってもらえればと思います。

 次に、蔦原君の「視覚芸術に表れる身体の無意識」ですが、これは、マシュー・バーニーの拘束のドローイングについて的確にまとめてくれた発表でした。たしかに、質問にあったように、結果としてのドローイングだけを見ると、それほどおもしろくないということになるのでしょうが、バーニングのドローイングは一種の痕跡であり、その痕跡を作り出したプロセスも作品の一部と考えると、俄然、おもしろくなってきます。このあたりは、パフォーミング・アートとも関係してくるわけですが、一方で、バーニーのようにプロセスを作品の一部と見なす例があることで、あらゆる芸術にとって身体の動きが重要であることが、あらためて浮き彫りになるという意味でも興味深い試みです。そしてこれは、シュルレアリスムにおける無意識ともどこかでつながっています。自動記述もまた、手を動かすという意味では身体の動きが絡んでいるわけで、そうした観点からさまざま芸術を見直すことができそうです。
 バーニーの拘束のドローイングが評価されることの背景には、もちろんいろいろな芸術界での事情なども作用しているのでしょうが、こうした作品が芸術の原理にまで遡る側面を有しているからでもあるでしょう。そうした芸術の原理のような問題や、これは永濱さんの発表にも少し関係していると思うのですが、蔦原君の言う「身体における無意識」といった問題を、今週の授業で少し考えてみたいと思っています。
 

コスタ&フィッシンガー

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2008年 7月10日(木)09時52分3秒
返信・引用
   鈴木君、後藤君、発表お疲れさまでした。先週末から今週にかけて、普段以上に忙しく、大変遅くなりましたが、感想めいたことを書いておきましょう。

 まず鈴木君の「『ヴァンダの部屋』ペドロ・コスタ――〈黙殺される都市のノイズ〉」ですが、「ノイズ」をキーワードにペドロ・コスタの世界に迫り、非常に刺激的でした。ペドロ・コスタの映画は、物語の起伏もなく、派手な画面展開もないので、論じるのがなかなか大変なのですが、その難しい試みに挑戦し、コスタの魅力をうまく伝えてくれたと思います。質問にもあったように、「ノイズ」が複数の事柄を指しているので、そのあたりの整理は少し必要かもしれません。都市のなかでの中心と周辺といったイデオロギーにかかわる部分と、表現に関する部分の区別ですね。音の問題だけでなく、たとえば画面の暗さも、ストレートに情報(この場合は視覚情報ですが)が伝わってこないという意味では、広義の「ノイズ」になるということだと思いますが、そのあたりがややわかりにくい面もあったかもしれません。場合によっては、内容と表現のノイズを2段階で説明するという手もあるでしょう。いずれにせよ、レジュメ(というよりも、ほとんどそのままレポートになりそうなプリントでしたが)を見てもわかるとおり、盛りだくさんの内容ですから、うまく整理しつつ、さらに充実させると、すぐれたペドロ・コスタ論になると思います。

 次に、後藤君の「視覚に訴える音・聴覚に訴える映像」について。オスカー・フィッシンガーの非常に興味深い抽象アニメーションを紹介してくれるとともに、「共感覚」という重要なテーマに取り組んでくれた発表でした。フィッシンガーについてはあまり資料がないということのようですが、抽象絵画との関係とか、アニメーションの歴史の中での位置づけとか、そのあたりが気になりますし、同時代の前衛的な芸術運動との連動性のようなことも考えてみたくなります。そうした座標軸のなかに置いてみると、フィッシンガー自身に関する情報があまりなくても、その作品自体についてもう少し詳しく見ていく基盤ができるかもしれませんね。たとえば、パウル・クレーの絵画にもある種の音楽性のようなものがあると言えるのですが、それとの関係はどうなっているのか、といったことを考えてみるのもおもしろいかもしれません。
 もちろん、今回の発表は「共感覚」の方向に進みたかったので、あまり余計な比較はしなかったのだと思いますが、フィッシンガーだけを素材に「共感覚」を論じると、逆に、「共感覚」を狭く限定してしまうおそれもあります。「共感覚」とメタファーの関係という指摘は非常におもしろかったのですが、フィッシンガーの作品だとあまりメタファーという感じがしないので、そのあたりが少し残念ですね。フィッシンガー論にするのか、共感覚論にするのか、そうした狙いをもう少し絞ってくれると、おもしろいものができるように思います。
 

バタイユ&カフカ&アウトサイダー・アート

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2008年 7月 1日(火)18時45分49秒
返信・引用
  沢井さん、青柳君、三崎さん、発表お疲れさまでした。今回は3人の発表ということで、時間的な制約から窮屈な感じもあったかもしれませんが、それぞれの発表で言いたいことは充分伝わってきたようように思います。

 まず、沢井さんの「「見ること」から「覗くこと」へ――ジョルジュ・バタイユの「非・知」の世界」ですが、難解とも言われるバタイユの思想を的確にまとめ、それを「見ること」から「覗くこと」への転換としてとらえた手際はみごとでしたし、知的な刺激におおいに富んだ発表でした。
 ただ、教室でも言いましたが、バタイユは「不可視」ということは言っていても、「覗くこと」という言い方はあまりしていないはずなので、そのあたりをもう少し補強する必要があるかもしれません。それとも関係することですが、バタイユについて言及し、最後はデュシャンで締めるという展開は実に小気味よいのですが、同じように「不可視」のものを取り上げようとしているとはいえ、バタイユとデュシャンでは、「不可視」とされるもの自体がややずれるようにも思いますし、アプローチの仕方も違います。これはむずかしい問題ではありますが、その点について、もう少し厳密に考えてみる必要がありそうです。それができると、非常におもしろい論考になるでしょう。

次に、青柳君の「フランツ=カフカ、その世界」について。カフカとシュルレアリスムの関係を丁寧に扱ってくれた発表で、それを通じて、シュルレアリスムにとって重要な要素である「驚異」「狂気」「夢」について、やや異なる側面から考えることができました。同時に、カフカの読みについても、シュルレアリスムとの関係を考えることで、新たな展望が広がる可能性があるようにも思います。少し気になったのは、たとえば、「人間として生きることが不可能な存在たち」という言い方をしていたように思いますが、そのときの「人間」とは何を指すのか(単に生物学的な「人間」ということでもないようですし)、また、結論に出てくる「理性で割り切れない「何か」」とは何なのか(こうした問いかけ風の結論も悪くはないのですが、これではあまり漠然としすぎています)、ということで、そうした点をもう少し詰めてほしいですね。
それと、発表を聞いていて思ったのですが、青柳君がカフカにこだわるのはなぜなのか、ということがいまひとつ伝わってこなくて、そのあたりが若干物足りなかったですね。さらに、この授業との関係で言うと、なんとか「視覚芸術」との関係を入れてもらいたかったところです。

最後に、三崎さんの「アウトサイダー・アート」について。シュルレアリスムはアウトサイダー・アートに深い関心を示していましたし、それは、たとえばブルトンがアフリカやオセアニアの仮面や彫刻などを多数コレクションしていたことにもつながります。これは、青柳君の言う「理性で割り切れない「何か」」とも関係するのですが、シュルレアリスムは西欧的な合理主義からはみ出すものへと眼を向けていました。そうした「外」への視線があるからこそ、シュルレアリストたちはアウトサイダー・アートに興味を抱いたのでしょう。同時に、既成の芸術の否定という考えを彼らはダダから受けついていたはずです。こうした点を確認できるという意味でも、重要な発表でした。シュルレアリスムとアウトサイダー・アートの関係も、短い発表時間という制約のなかでは、充分に説明されていたと思います。もう少し時間があれば、ヘンリー・ダガーやシュバルについて、もう少し具体的な説明を聞きたかったところではありますが……。発表のあと、アウトサイダー・アートの芸術性を疑問視するコメントも出ていましたが、そういう考え方ももちろんありうるものの、まずは、アウトサイダー・アートと呼ばれる作品群を、展覧会などで(あるいは、せめて印刷のすぐれたカタログなどで)見た上で、判断を示してもらいたいものですね。
細かいことですが、ひとつだけ指摘しておくと、デュビュッフェは普通はシュルレアリストと見なされていないはずですので、その点は気をつけておいたほうがいいでしょう。そのデュビュッフェ自身は、プロの画家なので、彼の作品はアウトサイダー・アートそのものではなく、あくまでアウトサイダー・アート的であるにすぎないということになるのかもしれませんが、場合によっては、彼の作品も紹介してくれると、はじめてこの言葉を聞いた人にとっては、アウトサイダー・アートについてのイメージを抱きやすい部分もあったかもしれません。
 

大辻清司&イヴ・タンギー

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2008年 6月25日(水)11時54分14秒
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   岩井君、佐原さん、発表お疲れさまでした。遅くなりましたが、感想めいたことを書いておきます。
 まず、岩井君の「大辻清司~モノ、写真、私~」について。
 大辻清司はそれほど有名というわけではないかもしれませんが、重要な写真家だとぼくは思っています。実験工房やグラフィック集団との関係も興味深いですし、なによりも写真の特性を原理的に追求し、実験的な精神に充ちた作品を撮った点に注目すべきだと思います。そうした大辻清司の写真を「モノ」というキーワードから読み解こうとする意欲的な発表でした。
ただ、質問にあったように、写真を「精神」の道具にするという言い方や、「写真は偏見を写すもの」といった言い回しが何を表わすのか、そのことと「モノ」にこだわることの関係がどうなっているのか、そうしたことが少しわかりにくかったですね。おそらく、大辻清司の写真理論を忠実に追って説明しようとした結果、これらの表現がやや未消化なままで残ったのかもしれません。そのあたりは、レポートにする過程でもう少し手直ししてもらうといいでしょう。
そのこととは別に、聞いていた皆さんには、「モノ」に焦点を当てた写真論とシュルレアリスムの関係がわかりにくかったかもしれません。たしかに、「モノ」にこだわった大辻清司の写真は、シュルレアリスムの絵画や、コラージュなどの技法を使った写真と較べてみた場合、あまりシュルレアリスム的でないように見えるかもしれません。しかし、岩井君が説明してくれたように、写真は、肉眼で見る場合との落差をもたらしてくるので、そこにはすでに日常的な現実とは異なる世界が現出する可能性が秘められているわけです。大辻清司さんは、シュルレアリスムと絡めつつ、そのことを次のように説明しています。
「不動の調和を保つがごとく見える世界の構造を、少しばかり組みかえてやることにより、いかに不確定な世界であるかに眼を見開かせ、その新鮮な驚きに、“ポエジーの発火”をうながす。これはシュルレアリスムのやり方の一つだった。写真は、こうした場面を実にスムーズに、しかも一瞬のうちに記録してしまう」
 こうした言葉をヒントにしつつ、シュルレアリスムのさまざまなあり方や、絵画や写真など媒体の違いにより異なってくるアプローチの仕方などを考えてみるとおもしろいのではないでしょうか。大辻さんの写真についても、もっといろいろな種類のものがあるので、作品自体を見てもらいたいですね。

 次に、佐原さんの「イヴ・タンギーと作品イメージ」について。
 タンギーについては、日本語で読めるまとまった文献などがあまりなく、そうした意味では準備が大変だったと思いますが、丹念に調べてあり、よくまとまっていました。はじめてタンギーの絵を見る人にも、その特徴などが伝わったことでしょう。ただ、できれば作品を年代順にもう少し多めに見てみたかった気もします。もちろん、時間的な制約もあってなかなかむずかしいのですが。
 簡単にはとらえがたいタンギーの絵画を、記号として名指せるもの、不定形でなざせないものという分類を導入して、後者に属するという説明をしてくれたのは、非常に興味深かったですね。これは、具象絵画と抽象絵画という分類とも少しずれていて(抽象絵画でも記号が現われてくるものはあるわけですから)、タンギーの絵画のように、具象とも抽象とも言いがたい作品を論じる際には有効ですし、タンギーの場合だけでなく、絵画一般について考える場合に、重要になってくる考え方のひとつであるように思います。
 もちろん、こうした二分法で分類するだけでタンギーの絵画の分析が完璧にできてしまうわけではなく、名指すことのできないイメージを提出してくる画家はほかにもいると思うので(他の画家の場合、タンギーほど徹底していない、ということも言えるのかもしれませんが)、タンギーの絵画に特有の形象とか構図の問題などをもっと細かく見ていく必要があるわけですが、入り口の部分の議論としてはとても重要なものでした。
 最初に書いたように、全体によくまとまった発表でしたが、レジュメについて少し気になった点があります。引用が多く、それ自体はいいのですが、それぞれの引用の出典をもっとはっきり書いておいたほうがいいと思います。発表のなかで口頭で言ってくれたりもしましたが、聞き逃す場合もありますし、引用した文章の書き手(話し手)に敬意を表するという意味でも、最初から書いておいたほうがいいでしょう。それと、引用が多いのはまったくかまいませんが、その引用のなかに出てくるキーワードのようなものを拾ったり、あるいは自分の言葉で言い直したものをもう少しレジュメに出しておいたほうが(全部出す必要はもちろんありませんが)、聞いているほうにはわかりやすいと思います。
 

「アリス」&土方巽

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2008年 6月17日(火)12時02分6秒
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   今野君、中村さん、発表お疲れさまでした。中村さん本人や藤野君からの投稿もありましたが、ぼくのほうでも少し書いておきましょう。
 まず、今野君の「『不思議の国のアリス』のテキスト性――シュルレアリストたちはなぜアリスと遊ぶのか」について。正直言って、「アリス」とシュルレアリスムの関係について発表すると聞いたときは、どうなるか心配したのですが、「アリス」をテーマにしたシュルレアリストたちの珍しい絵をいろいろと探してきてくれたり、「アリス」とシュルレアリスムの共通項を丹念に拾い上げてくれたりして、聞きごたえのある発表になっていました。網羅的になっている分、今野君自身も意識しているように、類似点の列挙で終わっている部分はありますが、「アリス」とシュルレアリスムを並べてみることで、いろいろと見えてくるものがありそうです。いずれにしろ、今回の比較をもとに、もう少し具体的な作品分析などをしてもらいたいものです。特に、質問や感想でも取り上げられたマグリットやダリの絵がやはり気になるので、あのあたりにもう少し踏み込んでみたらどうだろうという気がします。あるいは、ルイス・キャロルのことば遊びをダリのだまし絵に比較していましたが、その点についてもう少し考えることもできるかもしれません。いろいろと可能性を考えて、レポートで深めていってもらいたいものです。

 次に中村さんの「土方巽の舞踏」について。中村さん自身がダンスを実践しているということなので、そうした実践者の立場からの「熱い」発表でしたね。特に「衰弱体」や「姉」に焦点を合わせて説明してくれて、土方巽における「無意識」がどのようなものか、理解しやすくなっていたと思います。掲示板での補足で即興のことも書いてくれましたが、これも大事なテーマです。ただ、即興ということと「衰弱体」を同列で考えるのか、ある程度分けて考えるのか、といった問題はあるかもしれません。それから、「衰弱体」の場合、自我が停止して空っぽになるとしても、そのとき、自我で操れない部分の存在つまり「姉」が出てくるわけで、その「姉」がどのようなものなのか(もちろん簡単な答えなどなく、言語化もむずかしいとは思うのですが)考えてみる必要はありそうです。
 ちなみに、飯島耕一が土方巽と並んで日本のシュルレアリストとしてあげていた吉岡実には『サフラン摘み』という詩集があり、この中には、「ルイス・キャロルを探す方法」「『アリス』狩り」といった詩が収められていますので、偶然ですが、間接的には今野君の発表テーマとつながっていた、ということにもなるのかもしれません。

 藤野君の問題提起にも反応したいところですが、むしろ他の人たちと議論してもらったほうがいいでしょう。ひとつだけ書いておくと、これはルイス・キャロルのことば遊びなどにも通じることですが、遊びにはつねに規則(ルール)が必要なわけで、これは、この前少し紹介した「優雅な死骸」というシュルレアリスムの遊戯はもちろん、オートマティスムにも関係してくると思います(ブルトンは、自動記述をおこなう際の速度の重要性を強調していますが、この速度の重視や、あるいはひとりでなく複数でおこなうのが基本だという点は、遊びにおけるルールに近いとも言えます)。即興も、中村さんの言うように頭を空っぽにする必要があるにしても、ある種の規則のようなものはあるのではないかという気がします。これはもちろんジャンルにもよるのでしょうが、たとえばアドリブが必須とも言えるジャズにおいても、コード進行などは決まっているわけですから(ただし、フリージャズ以降はまた違ってくるのでしょうが)。
 

中村さんへのレス

 投稿者:藤野慎也  投稿日:2008年 6月16日(月)01時25分57秒
返信・引用
  即興ということについて、中村さんの書き込みを読み思ったことを書いてみます。

僕はダンスについては完全な素人なのですが、ダンスにおける即興は音楽におけるインプロヴィゼーションとかなり親近性があると思い、そしてそれらは両者共に会話に近いのではないのかと感じました。説明するまでもないですが、私たちは、日常の会話において言葉を発するとき、相手へ即応的に、いわば無意識的に反応することが多いですよね。入念に発話内容を頭の中で練ってからそれをそのまま発音する人は、少ないのではないかと思われます(もしかしたら主観的な思い込みかもしれませんが)。しかし一方で、私たちはほとんど無限定に広がるノイズの広がりの中から相手の発する言葉を意識的に拾い上げている点において、主体的にプライオリティーを選別しているとも考えられます。よって、日常会話あるいはコミュニケーション一般、さらに言えば日常生活全般において、私たちは意識と無意識の狭間を往還しているように思われます。
そう考えてみれば、小説にしても、絵画にしても、すべてを一貫して作者の主体性の下に製作するという行為自体が、一種の異様性をもって立ち上がってくるのではないでしょうか。そして、そうした奇怪な表現方法に着目し、警鐘を鳴らしたのがオートマティスムに代表されるシュルレアリスムの手法だったんだと思います。その意味で、意識と無意識という単純な二項対立の構図ではあるものの、シュルレアリスムの思想は戦後の構造主義からポスト構造主義へと連なる過程として、かなりの先見性があったと思いますし、現在の視点から見ても必ず考えなければならない出発点の一つだと思いました。

一つ疑問に思ったのは、おそらくダンスにしても音楽にしても、あるいは会話にしても、即興には一種の仕込み作業が必要だと思うんですよね。それはつまり、一定の体の動かし方を体に染み込ませることだったり、あるフレーズ郡を一定数苦もなく口ずさみ音として表現できることであったり、(ソシュールの言うような)一定の言語構造の網の目のなかに入り込むことだったり。つまり、こうした無意識の領域においても一定のコードが存在するような気がするのですが、そういう点についてはシュルレアリスムの段階では思い至らなかったのだろうか、というのが僕の疑問です。以前読んだ本のなかで、ブルトンがアメリカへ渡航中にレヴィ=ストロースにソシュール言語学について講義したという話を知ったのですが、ブルトンはその辺どう考えていたんでしょうかね。まあ、ひとり言です。
ではでは。
 

付けたし

 投稿者:中村容子  投稿日:2008年 6月14日(土)00時13分20秒
返信・引用
  こんばんは。今日(6月13日)土方巽について発表致しました、中村です。
発表聞いて下さって、質問や感想など言って下さった方々、ありがとうございました。
質問タイムの時に、誰からも聞かれてないのに、私が勝手に「無意識で踊ること」について話したと思いますが、そこで「無意識で踊れるようになるほど練習するんです!」と言いました。が、それだけでは説明できないものがあることに気づきました。またまた誰からも聞かれてませんが、私のつたない踊り子生命にかけて語らせて下さい。
説明できないものとは、「即興」のことです。「即興」とは、前もって用意された振付けを踊るのではなく、その場で何もない状況で踊ることです。これは練習のしようがありません。ですが、即興こそ無意識の状態が必要なんです。なぜなら意識を持って頭で踊りを作る時間なんて「即興」にはないからです。感じたままを直接体に出さなければ間に合いません。時間も曲も流れていってしまいますから。土方の言葉を借りれば、「衰弱体」で「姉」のなすがままに踊る、とでも言いましょうか。でもこれがすごく難しい。ちょっとでも頭を使うと体が止まってしまうんです。それでも無理やり踊ろうとすると、嘘をついたような気分になります。はたから観ても、うざったくて見るに耐えないものです。無意識って大事なんですよね…(クラシックバレエの場合当てはまらないこともありますが)。
土方の「即興」というのは本当に凄かったらしく、その点も彼の偉大な才能を知る上ではずせない部分なので、長々と説明致しました。
どうも失礼しました。
 

しりあがり寿&エイゼンシュテイン

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2008年 6月10日(火)12時13分47秒
返信・引用
   いろいろと書き込みがあって、ようやく掲示板らしくなってきましたね。
 さて、遅くなりましたが、今回も発表についての感想を書いておきます。
 藤井君、日野さん、発表お疲れさまでした。
 まず、藤井君の「『シュール』なマンガと『シュールレアリスム』」ですが、しりあがり寿を取り上げ、なおかつ、「シュール」という言葉で表わされるものを探るというのは、なかなかおもしろい試みでした。はたして、「シュール」という言葉でくくれるある種の傾向のようなものが実際にあるのか、あるとしたら、しりあがり寿以外にはどういった作者がそれに含まれるのか、といったことをもう少し詰めていく必要がありますが、ある部分では、現代文化論のようなものに広がる可能性も秘めています。
 その一方で、「シュール」という言葉にこだわった分、しりあがり寿の独自性のようなものがやや希薄になった感もあります。実際にマンガを見せてくれつつ、いくつか特徴のようなことをあげてくれましたが、たとえばこれをレポートにする場合は、もっと言葉で説明する必要があるわけで、そのあたりを考えてもらいたいと思います。
 それとも関連しますが、現代では日常の現実が確かなものでなくなっているという指摘は妥当であるものの、しりあがり寿の個性をそうした現代の特性に収斂させてしまう面もあるので、同じ現代の作家であっても、違う表現をする人はいるわけですから、そうしたことを踏まえて、しりあがり寿のマンガをもう少し正面から論じる部分があってもいいように思います。
 あとは、教室でも言ったとおり、「現実と夢の融合」という言い方でいいのかどうか、その点も再考の必要があるでしょう。

 次に、日野さんの「エイゼンシュテインとモンタージュについて」ですが、エイゼンシュテインのモンタージュ理論は映画について考えるときに避けて通れないものですし、日野さんの指摘にもあったとおりにシュルレアリスムとほぼ同年代という意味でも興味深い存在です(初回の鈴木さんの発表で取り上げられたジガ・ヴェルトフとも当然関係してきますね)。
 モンタージュ理論を詳しく説明してくれたのはよかったのですが、エイゼンシュテインのめざすモンタージュはいわゆるクレショフ効果の延長にはあっても、それとはずれる部分もあるので、そのあたり、もう少し補足が必要かもしれません。そうすると、歌舞伎の影響を受けたという説明の部分も、もっと発表全体のなかで生きてきたと思います。そういう意味では、歌舞伎との関係で出てきた「制動手段」の話をもう少し聞きたかった気もしますね。「制動手段」は、行為の結果を遅延させてサスペンスをもたらすだけでなく、その前のショットとは異質のショットを挟むということにもなるわけで、それは、2つのショットの組み合わせから第3の意味が生まれるというのとは、やや異なる側面を有しているように思います。その側面を追求していくと、ブルトンが『シュルレアリスム宣言』で引用していた詩人ピエール・ルヴェルディの言葉「接近する二つの現実の関係が遠く、しかも適切であればあるほど、イメージはいっそう強まり…」で表わされる事態との関連を考えることもできるようになるでしょう。
 もっとも、発表の際、必ずシュルレアリスムとの関係を考えなければいけないということでもありません。しかし、このエイゼンシュテインの場合は、シュルレアリスムとの関係を考えることによって、彼のモンタージュ理論にさらなる広がりを与え、現代の実験的映画などについて考えるための材料も提供してくれるように思います。
 

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